「波の伊八」の彫刻
当山の山門と本堂には、初代武志伊八郎信由の彫刻が飾られています。
「武志家」は、現在の鴨川市打墨で、江戸時代後期の安永年間から昭和にかけて、五代二世紀に渡って活躍した彫工です。『彫工世系図』によると、初代は、島村丈右衛門貞亮の弟子として修行を積んでいます。二十歳の頃、島村とともに現在の東京都杉並区にある妙法寺祖師堂の建立に関わって、向拝に龍を彫っています。その後、房総を中心に研鑽を積み重ね、「関東へ行ったら波は彫るな。伊八がいるから。」と関西の彫工たちにも囁かれたほどの達人となって、「波の伊八」の異名をとったほどでした。代表作には、行元寺客殿欄間額や石堂寺多宝塔壁面彫刻などがあります。特に、行元寺のものは、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」のモデルとされ、この浮世絵がフランスに渡り、ドビッシーの交響詩「海」の作曲に大きな影響を与えたと言われています。
当山では、山門(市原市指定文化財)中備の本蟇股脚部や二層妻飾りに、力士、一角獣、鯉、兎と枇杷、鴨、仙人などの彫刻が、また、本堂中央間に龍の彫刻が施されています。
制作年代は、山門妻飾りの力士像裏面に「寛政三」(1791)とあることなどから、石堂寺多宝塔の壁面十六面図制作の前後であることが明らかとなっています。当時の伊八は、四十歳という職人としてもちょうど油の乗りきった年齢にありました。裏書きの墨書から、ひと月平均2躯ずつ彫っていることがわかっています。
※参考文献『千葉県市原市指定有形文化財 真高寺山門修理工事報告書』 市原市教育委員会(2006)
一階蟇股内彫刻
二階蟇股内彫刻
北側妻飾り力士像
裏面 | 表面 |
南側妻飾り力士
裏面 | 表面 |
三体の龍
山門一階の狩野景川の天井絵 | 本堂左手の倶利伽藍不動の龍 |
本堂の梁 初代伊八(非公開) |