真高寺縁起
曹洞宗最勝山真高寺は、永平道元禅師を法系の祖として、室町時代の中ごろに開かれた古刹です。創建当時、室町幕府八代将軍足利義政から「中本寺」の寺格と御朱印地が与えられています。開祖は、太厳存高禅師と伝えられています。存高禅師は、木更津の真里谷にある「真如寺」の三世であった照應惠照禅師の弟子にあたります。寺号「真高寺」は、「真里谷」の「真」と、「存高禅師」の「高」を取ったものです。
本寺となった真如寺は、鎌倉公方足利成氏に仕えて、康世二年(1456)頃に上総の地域に入部した上総武田氏が築城した真里谷城(木更津市真里谷)の城主武田信興を開基とする寺院で、寛正五年(1464)の開山と伝えられています。また、照應禅師は、信興の孫にあたっています。
当時の東国は、京都の応仁の乱に匹敵するような享徳の乱の只中にありました。鎌倉公方足利成氏と関東管領山内上杉氏との対立が激化していたのです。特に、成氏に仕えた上総武田氏が上総地域に入部した頃は、将軍義政が成氏に対抗するために異母兄の政知を正式な鎌倉公方として関東へ送込んだ直後でしたから、成氏自身も下総の古河に遁れ、厳しい状況に追い込まれていたのです。房総の地は、以後、戦国時代の群雄割拠の時代へと突入していきます。真高寺は、そのような世情と歴史的な背景の中で、飯給の地に創建され、中世を生き抜いてきました。
豊臣秀吉による小田原城攻めによって戦国時代に終止符を打った後、慶長七年(1602)に飯給の地は久留里藩領となりました。徳川家康が江戸の幕府を開くと、家康は真高寺にも朱印地十五石を許し、これに加えて末寺七ヶ寺を認めました。幕府からの寺領の安堵は、寺の運営を安定的なものにしたことでしょう。江戸時代前期にあたる延宝六年(1678)頃には、月舟宗胡を中興の祖とする曹洞宗中興の流れの中で、堂舎や尊像の建立などが進められました。このことは、山門の扁額や釈迦如来坐像の墨書銘文からうかがい知ることができます。また、江戸時代の中ごろには、十六世日山覚照の時に、山王権現の修理を行っています。
江戸時代の前期に整えられた伽藍も、百年の月日を経て諸堂に大きな破損が見られたのでしょう。十九世久峰昌桂の時代から、二十一世智學桂秀の時代までの三代にわたって、諸堂の建替えが進められました。現在に残る山門は、このときの再建の総仕上げに建てられた山門で、寛政五年(1794)に上棟式を行っています。上層を禅宗様に、初層を和様に仕上げられた八脚門には、「波の伊八」の異名を持つ初代武志伊八郎信由や狩野重信の天井板絵が飾られていて、再建当時の荘厳な姿を、今に伝えています。当山は、戊辰戦争などの折に災禍に遭遇して多くの資料を失いましたが、創建や中興以来の精神を引き継ぎ、今日にいたっております。
第一義
参道を登ってゆくと、正面の山門に掲げられた「第一義」の扁額が、気合の篭った筆勢で出迎えてくれます。「第一義」とは、「仏法の極意」を表すことば。曹洞宗中興の祖として名高い月舟宗胡禅師の筆によるものです。
月舟禅師は、金沢・大乗寺の二十六世という要職の中で、常に自らを律し、「規矩大乗」と呼ばれた高僧です。当山の扁額は、禅師が還暦を迎えた頃の筆勢を伝えています。山門よりも百年以上前の、江戸時代前期のものです。当初、堂舎のどの建物に掲げられていたのかは定かではありませんが、当山が、曹洞宗中興の初心を、こんにちまで変わらずに伝えてきたことを物語っています。
※月舟宗胡禅師:元和四年(1618)〜元禄九年(1699)号は 可憩斎俗姓は原田氏、肥前国出身、書や扁額など多い